昭和52年01月07日 朝の御理解
御理解 第33節
「お供物とおかげはつきものではないぞ。」
今朝からもう私ここでいろいろ頂いたことを手控えにしておったものが沢山ございます。それがもうこんなのに、もうおそらく十冊とはいわん位に沢山出来てる。もういきなりどこになにを書いておりますのを、アルバムに全部載せておる。今朝からここえ夕べ遅う出来たんでしょう、此処にひとつ持って来ておる。一番初めの所を開かせて頂きましたら、三代様のお言葉が此処に出ておりました。「有り難う有り難う受けていかんと、物事成就致しません」と。
物事が成就するという事はね、もう有り難う有り難う頂いて行かなければ物事は成就しません。成就しかかったかと思うと又元に戻る、成就しかかったかと思うと又元に戻る。とにかく有り難う有り難う受けて行かねばと言うのです。次には「楠木太りのおかげを受けい、力を受けよ、まず太れ、痩せきれておってはなんぼう力んでも大した事はない。太るとはどん腹の事じゃ。成り行きを大事に頂け。自然と心が大きくなれる。力を受ける為には自然との対決により力を受けよ。
外道の修行で力を受けて又元に戻る、信心問答でも双方怪我あるだけ。」と言う様な事がある。成る程おかげとお供え物はつきものではないと仰る。とにかく有り難う有り難う受けて行かぬと物事成就致しません、と言うのですから。物事が有難う有難う受けて行けば物事が成就するという事ですから、ならお供えをしなくても有難う有難う受けて行けばおかげが受けられるという事が分かります。
いよいよそのおかげをほんなら大きなものにして行くためには、お供えを例えばしなくても楠木太りのおかげを頂く。力を受けようと思えばまず自分が太らなければならない。痩せきれておって如何に力んだ所で大した力は出らん。まず自分自信が太らなければならん。太ると言う事は成り行きを大事に頂け自然と心が大きくなる。成り行きを大事にして行く自然と心が大きくなる、豊かになるというわけですね。
とにかく信心はお道の信心は自然との対決だと、自然に例えばほんなら起きて来る事柄とのいつも対決なんだ。だからいつも対決して行くから力もやはり出来るのだ。しかもその対決に依ってです、私共がそれを自分で頂き切って行くという所に、いわば大きな心も頂けれる力も付いて来ると言うわけです。外道というのは外道ですね。この外道がと言うでしょう、あの外道です。外道というのは例えば表行をする、表行はまずは外道ともうこれは言い切って良いと思いますね、現在の合楽では。
水を被ったり断食をしたり火の行水の行といった様なものはもうこれは外道です。なるほど一時力が付くようではあるけれども、その修行が止むとまたス-ッと消えて失われて行くもんです。これは不思議です。それで徳を受けたかの様にあってもその徳は神徳ではないですから大したことにはなりません。しかもそれは外道だと、まあ極言してあるわけですね。今極言しておるわけです合楽では。
金光教の信者の中にでも少し御比礼が立つ教会といやあ、必ず先生が水を被ったり断食したり必ずしよんなさいます。難儀な問題がやって来ると夜の夜中も無い様に起き上がって水を被って一生懸命御祈念をして下さる。おかげを頂く。そのおかげは頂くけどもそういうおかげではこれはもう外道の修行だと、まあ合楽では決めつけておるわけですね。もうどこまでも心行。信心問答では双方怪我あるだけ。理論を戦わす。
よく共励会などで只自分のものでもないものを、これが本当だこれが本当だと言うて討論し合うという事ですね。双方が怪我するだけだと。いうならば信心問答の愚かさをここには説いてあるんです。だから今日の御理解から頂きますとです例えば、楠木太りのおかげを頂くためにはまず心が太らなければならない。自然との対決に依って力を受けて行かなければならない。力を受け心が太るなら、言うなら楠木太りのおかげが受けられるという事でございます。してみるとお供えをしなければおかげは頂かれんてなんてんいうことは一つもないわけです。
昨日は福岡の川上さん、毎朝ああしてもう三年何ヵ月続いとります。本当に初めの頃はもうそれこそ電車の中で、それこそ合楽示現活動でもうそれこそ、池田先生がまだあちらから二人でお参りしよる時分でしたから、もう競争の様にして皆に電車の中でもバスの中でもお話をした。お寺の坊さんにも話しゃ、キリスト教の牧師さんにも話す。もうそれこそそう言う様な時代もあった事を、昨日はしみじみ思わせて頂きました。以前そういう問答をした、天理教の先生がおられた。
そして「あんたまあだ参りよんなさるですか」という事だった。もう昔の「三年何ヵ月朝参りが続きます」と言うたら、もうそれを大変にへちくずされた。「そげん毎日毎日参って、私の方のあたりではね、そげな信心ななか。此の頃も何とか癌が一人助かった、だからもう天理教の信心は、120万お供えしなさい癌が助かる。」ち言うた。「そりゃあ120万出し切らんちゆうたから、なら100万円に負けとく(笑い)ち言うて100万円お供えさせた。そしたら癌がようなった。
もうとにかく人間な欲さえ放しゃ助かるごとなっとるとじゃから、そげな朝参りそのてん何でん、こげえ早うからしかも福岡から合楽辺まで参ってから。」ともう散々に言われたけども、その時はおかげを頂いて、心の中に豊かな心で日参の有り難さ、御理解を頂く日々の喜びとか楽しみとか、自分の心がいよいよ、おかげの状態になって行く事の楽しみやらをいうて聞かせても、この人は分からん。
此の人の教えは只お供えさえすれば助かる。所謂家も屋敷もお供えしてしまわんならんという宗教。まあ世の中には恐ろしい宗教もあるもんだと思うた、というお届けが有りました。所謂討論しない、怪我しない両方とも。只自分の頂いとる信心だけが、ただいよいよ有り難いものになって来たという訳なんです。ところがです、有り難い有り難いで受けていけば物事が成就する、いよいよ太くなることのための精進を一生懸命すれば楠木太りのおかげが受けられる、限りなく大きいおかげが受けられる。
しかも言うならば、表行は外道だとまで合楽では言われるのだから、そういう難しい修行をせんでも、言うならば教えに取り組んで、有り難い、言うならば、自然の働きそのものを有り難く受けていく、稽古を一生懸命する。まあ場合には対決ですから、力まなければおられない時もあるけれども、神愛を感すれば感する程、それを有り難く受けて行く事が出来る。その様にして心は豊かになり、いよいよ力が付いてくる。
信心が詳しくなって、いうならば、討論的なことでは相手を怪我させ、そして自分も怪我する様なものであるというわけです。そこで私は、なら何故お供えは又必要、おかげとは付きものではないという事は、どういう事かというと、おかげを頂きたいからお供えするのじゃあない、という事でございます。何か貰わんならんから、お供えをする、これは汚いですやはり。
けれどもその、天理教の先生が言われる様に、確かにそういう理もないじゃないです、理の上に。しかし癌が100万円で助かるなら、安いこっですよね。昨日私テレビを見せて貰いよったら、とにかく、大変な強欲な商人が殺されようとするところを、後ろから又悪い奴が来て、その殺そうとしよる奴を殺したわけです。だからもう、金を何百万でん何百両でも出すから助けちくれ、助けちくれと言っているのです。それを後から、悪か奴が又そん殺しよっとを後ろから殺してやったわけです。
だからその言うならば、何百両でん出すて言うて、命乞いをしよるとじゃから、そん何百両出しても良かりそうなもんだけども、自分が助かったら何十両か少ない金で負けてくれとこう言うわけです。そしたらその悪い奴が言いよるとじゃ、金持ちという奴は自分が助かった途端に欲が出るもんだ。これは金持ちだけじゃない、これは人間の通有性じゃないでしょうかね。
とても、どんなに考えたっちゃ、なら合楽のように、毎日癌でどんどん助かりよるけん、いうならばひとりが百万円づつお供えしよんなら、もう瞬く間に百万長者になるでしょうばってんね。それこそ百円でも千円でも、それこそお供えをなさる、真心ならそれを押しいただいて、私は神様にお供えをする。そりゃ癌のようなる前は思いよんなさるかも知れんですよね。ほんなこてこれが、ようなんなら、千万円出えたち良かち思いよんなさるかもわかりませんよ。
けれども実際助かって見ると、そういう事は出来るまあもんじゃない程しに、難しいという事であります。悪人に限らず、金持ちに限らず、やはりそういうもんなんです。昨日御本部から電話が若先生宛に掛かってきとります。布教部からいよいよブラジル・ビリグイ行きの事が具体的になって、出来ればもう五月迄にはこちらから行って貰いたいという通知があった。
その事を、昨夜思わせて頂きよったら、もう色々と考えるわけですね。所謂人情が出て来るわけです。まあ考えても、何にんならんことだけども考えるんです。そうじゃからこんな事をしたら、神様からね、「天地が相手」ということです、もう途端に考えんですむ様になりました。小さい人情やら人間やらで、あげんもしてやらにゃいくまい、こげんもしてやろう、あれも持たせてやろうあっちに行ったならこげんも言わにゃんばいあげんもいわにゃんばいという事まで考えよるわけです。
けれどもそういう事は所謂、神ながら、しかもそれは天地が相手じゃないか、という事。ブラジルの天地も、日本の天地も同じなんだよと。本当に金光様の御信心はね、いうならば、天地が相手なんです。だから天地の心を心とするという、天地日月の心になること、いよいよ肝要だというわけであります。
私共が何が何というても、生きてゆく生活をしてゆく上には、全てのものが言わば幸福の条件といったような、お金も要りゃ物も要る健康も要る。家も要りや着物も要る。衣食住それが揃わなければ、人間の幸福はあり得ない。その上、心が助からなければならない。そこには、只自分の精進とか努力だけで、幸福になれるものではない。精進努力の上に天地の御恩恵、あの人は中々ふが良かと、言うようなふが良いという、それが何時も頂けれる生活を、信心生活だと思います。
そこでね、ならお供え物とおかげは、付きものではないという事を、三代金光様のお言葉の中から、又は私この手控えにしとる中からみて、大きなおかげがお供えをしなくっても、おかげとは別物であるという事。だからお供えというものが、おかげを頂かなければならんからするのではない、神恩報謝の心を、只形に表すだけなんだという事。それをもっと言うと天地が相手なのだから、天地に還って行くのだ天地に還元するのだ。
お米も私共の命なら、お金も又私共の命なのだ。着物もやはり私達の命なのだ。命を守って呉れているでしょうが。お米が、お金が、着物が、住居が。だからもう命と同じなんです。その命を神恩報謝の心、有り難い一念をそこに含めて、それに添えて、お供えが出来る時に、どういう事に成るでしょうか。もう間違いなしに天地に還って行く、天地に還元して行く、天地にお返しをしていく、ということになるのです。
だからお徳を受けるんです。お供えは私は、天地に対する還元、それはお供えその物が自分の命だということです。自分の命を天地に還していっておるのです。天地に還って天地と一体に成るわけです。そういう素晴らしい意味合いが、私はお道の信心のお供え、癌を助けて貰う為に百万円、これはどうげん考えても、一つの理で有ろうけれども汚いね。けれども私共が分かる所が分かり、有り難い有り難いという心にならせて頂いたのも、金光様のおかげ。
いよいよ太くならせて頂く為にもです、天地の道理を分からせて貰うて、それを合掌して受けて行く、自然との対決に依って、力を受けてきたのも教えのおかげ。金光様の御信心を頂く事によってです、外道の修行もせずに、正しい修行についての、信心修行がでけるという事、しかしながらいよいよ真の信心、いよいよ素晴らしい信心と言えれる。そしておかげを受ける。その神恩報謝の心が、お供えという形になる、それはそのまま貴方の命を天地えお還しをするという程しの意義のものですから、天地に還して行くというのですから、これはもうお徳の世界に繋がるのです。
或る篤農の人が言っております。お米は人間が取っても良いけれども、その殻だけは天地に対する、大地に還していけと。藁だけは殻だけは天地に還していけ。そうすればね、もう限りなく恵まれるだろうと言っております。天地え還元する、もう限りなく恵まれて行く基を作るのがお供え、金光教のお供えです。貰わんならんからというのではなくて、お金は命だという、着物は命だという事、お米は命だという事。
まあ沢山あります、人間が生きて行く上に、必要なものは全部命なんす。それを身を削るいや命を削る様にして、天地に還していくのですから、もう天地と一つになるのですから。なるほど藁を還してさえ行けば、もう尽きることなく、年々歳々限りない恵みに浴する事が出来るというのです。そういう意味で、皆さんお供えが出来るだけ、神恩報謝の真をこめてお供えが出来る様な、おかげを頂きたい。
十年祭にはどうでも、百万円おかげを頂きたい、もうそれはとても、今の貴方にそんな事が夢にも思わない程しの、その方にとっては大金なんだけれども、それをやっぱり願い続けておられる方があります。素晴らしい事です。やっぱ発願しなければいけません。願いを立てて、その事に取り組ませて頂くということ。
今日はお供え物と、おかげは付きものではないという事実を、三代様のお言葉の中から今日は聞いて頂いた。もう絶対おかげと、お供えとが付きものではない、金光教では。もう有り難うさえなっていきゃおかげ頂く。楠木太りのおかげを頂きたいと思うなら、いよいよ自分が腹が大きうなって、自然との対決に打ち勝って行く〔聞き取り不能〕して行きゃ必ずおかげは受けられる、と言うのですから、お供えものと付きものでない事が皆さん分かられた。
けれどもお供えは、又私共がが天地が相手であるという信心、だから天地以外の、神様や仏様を拝みよんならいざ知らず、だけれども、天地を対象としての相手としての、信心なのですから、その天地に自分の命を捧げるという事は、とりもなおさず、天地えの還元になるということ、だから尽きぬおかげの頂けれる元を、作っていくという事になるのです。尽きぬおかげという事は、お徳という事になります。お徳を受けるために、私が一生一代に、どれ程しの還元が出来るかと、いうところにです,お道の信心の言わばお供えの素晴らしさが、私は有ると思います。
どうぞ。